shigureinnのブログ

社会学を学べなかった私が倫理のおべんきょー

【毒所感創文】デレク・パーフィットの『理由と人格』 1.自己利益説

はじめに

 今回は、一番最初にしてかなり大事だと思う議論、自己利益説を取り上げる。これは、「第一部 自己破壊的諸理論」の「第一章 間接的にj自己破壊的な諸理論」に属する。早速、自己利益説について読んでいきたい……ところだが、まずは第一部の序文を読んでいく必要がある。そもそも「自己破壊的」とはなんぞやと思うだろうし、自己破壊的と自己利益説のつながりもわからない。私は、ある議論がどういった問題意識で発生しているかを理解しないとその議論を正確に理解することはできないという立場をとるので、今回も序文をないがしろにしないのである。ある汚染された川の中流だけ見ていも汚染の原因はわからず、源流や上流を見なくてはいけないようなものだ(この比喩必要か?)。

 ということで、例によって例のごとく、勝手に解釈して読んでいくので、よろしければお付き合いください。

 

第一部 自己破壊的諸理論の序文について

 いきなり出だしが難しい。

原文:What do we have most reason to do?

訳文:われわれの多くは、何をするのが一番理由があるのかを知ろうと欲する。*1

 はっきり言って意味が分からない。読解力のない私は思わず読む気が失せてしまうのだが、ここで前回触れた序を思い出す。この本における「理由」とは、行動の理由だったはずだ。それを踏まえると、「どんな行動が最大の理由を持っている」かみたいな感じだろう。この解釈が妥当かどうかは今後読んでいけばわかるはずなので(あれ問題を把握するために問題意識を把握するはずがその逆になっていないか?)、とりあえず先に進む。読み進めていった結果、どうやらこの序で言いたいことは以下のような感じだと思われる。

 どんな行動をすべきかについて道徳理論と合理性理論が答えてくれるが、この二つの理論は必ずしも一致した答えを提供するとは限らないので、どちらが最善の理論か決めなくてはいけない。その際、自己破壊的であるかという観点で議論することができる。ある理論が自己破壊的であるというのは、その理論がその説明対象すら説明できておらず破綻しているということである。自己破壊的な理論は、さらなる展開や拡張されるべき、あるいは却下ないし改訂されるべきである。

 この解釈が正しいかは続きを読んでみないとわからないのだが、前回、われわれの理由に関する信念は間違っているという話を読んでいるため、道徳理論や合理性理論に関するわれわれの信念は自己破壊的で間違っているから改める必要がある、という話になるのが自然だろうと見当をつけておく。

 

自己利益説

 この議論においてパーフィットは自己利益説を定義する。その説明手順も割とわかりやすいのだが、議論の展開をそのまま追って要約すると省略できる部分がほとんどなくなってしまう。よって、ここではあえて議論の展開は無視してまとめていくことにする。具体的には、まず自己利益説の主張を提示し、その後補足していくスタイルをとる。

 自己利益説の中心的主張は以下である。

S1

個々の人物にとって、この上なく合理的な究極の目標がある。それは彼の生が可能な限り彼にとってうまく行くことである。*2

 パーフィットは、彼の生が可能な限り彼にとってうまく行くことを最善と呼んでいる。

目標

形式的目標と実質的目標

  自己利益説の中心的主張(S1)のうち、まずは目標に注目しよう。ある理論の「目標」とは、その理論がわれわれを努力させて何を達成するのかという意味である。たとえば、すべての道徳理論は道徳的正しさを目標とし、すべての合理性理論は合理性を目標とする。このような目標は形式的目標(formal aims)である。また、ある道徳理論は別の道徳理論とは別の目標を持ったり、ある合理性理論は別の合理性理論とは別の目標を持ったりする(道徳や合理性の中身次第でその理論の具体的な目標も変わりうる)。このような目標は実質的目標(substantive aims)である。要するに道徳という箱の追求する目標は形式的であり、嘘をついてはいけないという箱の中身の追求する目標は実質的であるということで、親子関係・主従関係に近い関係性だと思う(目標自体に親子関係や主従関係があるわけではないが)。

 パーフィットは「実質的目標」の意味で「目標」という言葉を使用することを宣言している。

それ[目標を実質的目標の意味で使うこと]は道徳的目的(goal)ではなしに、権利や義務にかかわる道徳理論を記述することができる。*3

というメリットがあるから、目標を実質的目標の意味で用いていると思われる。おそらく哲学的な「目標」という語の使い方の前提があるから、わざわざ宣言しているのだと思うのだが、哲学的素養がない私にはこの宣言をわざわざする意味がいまいちわからなかった。もしかしたら、今後使う「目標」は具体的な行動指針(ex. 嘘をついていけない)というのを示してくれているのかもしれない。

究極の目標と道具的目標

 形式的目標とか実質的目標は良いとして、S1にある究極の目標とは何ぞやという話に入る。これはいたって簡単で、ある目標Aが別の目標Bを達成するための手段にすぎないとき、目標Aは道具的目標、目標Bを究極の目標と呼ぶということである。つまり、S1で示されている目標は道具的目標ではなく、自己利益説が達成したいものそのものであるということだ。

 

自己利益に関する理論

 では、自己利益説が達成したい究極の目標であるところの、彼の生が可能な限り彼にとってうまく行くこととは何なのか。もし自己利益説に従って行動する場合、どんな行動をすれば最善なのだろうか。この問いに答える理論をパーフィット自己利益に関する理論と呼ぶ。私が追究せんとするものはこの理論に属することになるだろう。

 有力な説として快楽主義説、欲求満足説、客観的リスト説がある。

・快楽主義説は、ある人にとって最善とはその人を最も幸福にすること。

欲求満足説は、ある人にとって最善とは、生涯を通じてその人の欲求を最も満足させること。

客観的リスト説によると、ある物は、われわれがもうと欲するか逃れようと欲するかにかかわらず、われわれにとってよいものだったり悪いものだったりする。

これらの説については「補論I ある者の生を最もうまく行かせるもの」で取り上げられているので、そこで改めて触れたい。

 さて、これらのうちどれが正しいのかという話になるが、パーフィットは決めようとしない。なぜなら、自己利益説は合理性理論だからである。

合理性理論

 そろそろ忘れていることだと思うので、もう一度S1を思い出そう。

S1

個々の人物にとって、この上なく合理的な究極の目標がある。それは彼の生が可能な限り彼にとってうまく行くことである。*4

 あとは合理的という言葉について触れれば、だいたい言及したことになる。

 S1に合理的なという文言が含まれるのは、自己利益説が合理性理論の一種であることを示唆している*5。ここで目標の話も思い出すと、以下のようになる。

・自己利益説は合理性理論の一種であって、自己利益に関する理論の一種ではない

・合理性理論の(形式的)目標=合理性

・自己利益説の(実質的)目標=彼の生が可能な限り彼にとってうまく行くこと

自己利益に関する理論と自己利益説は別物である。また、本書で議論されるのは主として後者であって前者ではない。もし自己利益説を行動の理由として適用するならば、確かに自己利益に関する理論を選択する必要がある(何が最善かはっきりさせる必要がある)が、自己利益説を論じるだけならば、自己利益に関する理論のどの説にコミットするかを決めることなく、どの説にも成り立つような主張は可能である。なぜそれが可能なのかははっきりと言及されていないが、自己利益に関する理論の三説に共通する最大公約数的なもののみで議論ができるからだと思われる。パーフィットは自己利益に関する理論の三説に共通点があるという。ここでは二点挙げられている。

 一つ目は快楽主義説そのものである。

この三つの理論のすべてにおいて、幸福と快楽がわれわれの生をうまく行かせるものの少なくとも一部であり、悲惨と苦痛はわれわれの生を悪くさせるものの少なくとも一部である。*6

 二つ目は未来も軽視してはいけないということである。

これらの理論はすべて、誰かにとって何が最善のことであるかを決める際、われわれはこの人物の未来のすべての部分に等しい重みを与えるべきであるとも主張する。*7

 

 

*1:3ページ上段

*2:5ページ下段

*3:3下-4上ページ。

*4:5ページ下段

*5:ちなみに、面倒なのでいつも「合理性理論」と書いているが、本当は「合理性に関する理論」が正しい

*6:4ページ下

*7:4下-5上ページ