shigureinnのブログ

社会学を学べなかった私が倫理のおべんきょー

幸福論的な愚考録 00

 私は中学生の時から、人はいかに生きるべきか、また、社会はどうあるべきかについて疑問に思っていた。特定の個人が人生のある局面でどのような選択をとるべきかのような具体的な話ではなく、一般的に人間というものがどうあるべきなのか、そのことに関心があったのだ。当然(果たして本当にそうなのだろうか?)人と人とが交われば、そこには社会が在る。だから、人間の理想を追究する上では、社会の理想も重要な考察対象になりうると考えている。

 では、その理想とは何かというと、これが難しい。個人だけに注目するならば、その個人の幸福の最大化だろう。すると今度は、その幸福の意味を考えねばならない。私はおおまかな意味としては、循環論法的な気もするが、幸福を「至高の目的」と解したい。アリストテレス的に言えば「最高善」だろう。

 しかし、これには二つはっきりしなければならない点がある。まず、幸福は時間的に二種類あるということだ。ある出来事が幸福であるということと、その人の生が幸福であることは明確に区別されなければならない。これはゼールが既に言語化していることである。私は、至高の目的としてより適切であるものは、生の幸福であると考える。確かに、人とは、しばしば目先の快楽を追求してその後に大きな不幸を経験する生き物であるが、我々が真に追求するのは幸福な出来事ではなく幸福な人生だと思うのだ。これを論理的に述べることができれば、私も少しは自信が持てるものだが、私はあいにく次の例を持ち出すことくらいしかできない。これは私への宿題である。

 ヘロドトスの歴史に次のような話がある。ソロンは、クロイソスに「この世界で一番仕合せな人間」を訊かれて、「アテナイのテロス」と答えた。自分が世界一幸せだと信じていたクロイソスは驚き、理由を訊ねた。ソロンは、繁栄した国で子孫に恵まれたこと、生活が裕福であったこと、死に際が見事だったことを理由に挙げた。クロイソスは、今度は自分が二番目に幸せな人間だと思って、ソロンに「テロスに次いで二番目に仕合せな者は誰と思うか」と訊いた。ソロンは、見事な死を迎えたクレオビスとビトンの兄弟を挙げた。クロイソスが、自分が幸福でない理由をソロンに訊ねると、ソロンは次のように答えた。「あなたが莫大な富をお持ちになり、多数の民を統べる王であられることは、私もよく判っております。しかしながら今お訊ねのことについては、あなたが結構な御生涯を終えられたことを承知いたすまでは、私としてはまだ何も申し上げられません。どれほど富裕な者であろうとも、万事結構ずくめで一生を終える運に恵まれませぬ限り、その日暮らしの者より幸福であるとは決して申せません。(中略)人間死ぬまでは、幸運な人とは呼んでも幸福な人と申すのは差控えねばなりません。」その後クロイソスは実に波乱に満ちた人生を送り、決して幸福な人生を歩まなかった。

 最終的にその生に満足できるかが、私には非常に大切なことのように思える。それには失敗のない順風満帆な人生よりも、多少の挫折がある経験があった方が良いのかもしれない。ある瞬間的な不幸も、後の幸福の糧となるというのは、そう珍しい話ではないはずだ。

 ある優秀な後輩はこの瞬間的な幸福を「微分的」と表現し、もう一方の幸福を「積分的」と呼んだ。この表現を用いると、ある人にとっての幸福とは次のように考えられる。縦軸に幸福度、横軸に時間をとるグラフがある。グラフに描かれるのは、各個人の各時間においての幸福度をプロットした点を結んだものだ。ここでの幸福度とは、ある瞬間的な時間において、人が本人にとってよい状態または変化を経験すること、あるいはある状態または変化をよいと判断すると、より高いと判断されるものである。この考えに則れば、ある人の生が幸福であったとは、その積分(グラフと縦軸横軸に囲まれた面積)によって得られると考えられる。しかし、私はそうは思わない。たとえば野球で初回から8回裏までリードしていても、最後にサヨナラホームランを打たれれば負けだと思う。これについてはまだ検討の余地があるだろうから、またの機会に考えたい。それに、では死ぬまで幸福かどうか判断できないのか、7回終了時点で勝利していることに意味はないのかなど、突っ込みどころはたくさんある。ここでは、幸福には時間的に二種類あること、そして人生が幸福である方を私は重視することが、今の時点で大事な内容だ。

 さて、もう一つの問題点は、幸福であると判断するのは誰かということだ。先ほど「本人にとってよい」という表現を用いたが、私は幸福であるかどうかの判断をする主体は、本人でなけれなばならないと考える。どんなに他人が羨む状態であっても、本人がそれを幸福であると自覚できていないのならば、それは幸福ではないと断ずるのである。なぜなら、至高の目的として追求されるべきものは、自分が幸福であると感じられるものであって、他人から見て幸福であると判断されるものではないと思うからだ。もちろん両者が一致することもあるだろう。ただ、両者が衝突した場合、主観的幸福を客観的幸福よりも優先すると言いたいわけである。

 以上の非常に粗い議論を踏まえると、個人の幸福の最大化とは、個人が自分で最も満足できる人生を歩むことを指す。その手段を考える際に、微分的な幸福も関係するかもしれないし、理想的な社会のあり方も議論されるべきであろう。