shigureinnのブログ

社会学を学べなかった私が倫理のおべんきょー

幸福論の断片

はじめに

 ちょっと思いついたのでメモがてら書いてみようと思う。

 私が思いつくことなので、今まで私が知らないところで誰かが考えて発表しているかもしれないが、それをパクる意図は全くない。もし以下に書くことが既に発表されているならば、大変興味深いのでコメントなどで教えていただけると幸いである。

 

I am happy. VS My life is happy.

 幸福という言葉を使う際、以前も触れたかもしれないが——私は去年何書いたかを覚えていない——、二つの語法が考えられる。

1:私は今満足している精神状態であるという、I am happy.

2:私の人生は満足のいく、うまくいったものであるという、My life is happy. (英語的には正しくないかもしれないが)

私はこの二つを、ミクロな幸福/マクロな幸福、あるいは微分的幸福/積分的幸福などと換言することがある。その根底には、その二つが対比的に考察されるべき別概念だという意識がある。しかしながら、私の狭い狭い観測範囲では、1と2が混同されるか、どちらかだけ議論されている印象がある。もちろん、幸福ないし福利などの言葉は使用者によって守備範囲が変化するからといって、恣意的に解釈してはならない。議論がどのコンテクストでなされているかを常に注意しなくてはならず、1についての議論を2として読み替えてはならないし、その逆もまた然りである。

 という前提を踏まえた上で私の立場を明確にすると、幸福について私は2の方を重視している。一時的にハッピーでも死ぬ間際に不幸な生をあまり評価していない。このスタンスは昔から変わってはいないのだが、これには問題があると自覚していた。1と2を混同したくなる原因でもある。

 

死ぬまで幸不幸が決まらないのは不便である

 人生を評価するタイミングはいつなのだろうか。「ある人が最後に意識を持っていた瞬間、その人の人生の幸不幸の評価は確定する」と仮定しよう。それは私たちが死ぬまで幸不幸かがわからないことを意味する。しかし、これはあまりにも不便である。生きている個人の幸福を実質的に評価できないからである。例えば、個人の幸福が同じになるように社会で幸福的資源(それはお金かもしれないし、別の何かかもしれない)を配分しようとした際、個人の幸不幸の評価をどうやって行えばよいのだろうか。

 そこでちょっと思いついた仮説、すなわち本稿のメイントピックになる。

ある人の幸福(度)とは、ある時点でその人の人生がどれくらいうまくいきそうかという、その人が抱く期待(値)である。

 これは1と2の区別を曖昧にしており、今までの想定とは大きく異なる。しかし、うまくいく予感がなんとなくする。当然のことながら細部を突き詰めるには十分な時間考える必要があるため、本稿はここで一旦止めておくのだが、ここをしばらく議論のベースキャンプにしていろいろ思索の旅に出かけたいと思う。

 

追記

自分が今人生で瞬間的に最高の幸福を迎えてると思っている時、これから下降線を描く人生を悲観的にとらえるとどうなる?

 

追記

これからの人生が決して今より幸福でないとわかっていても、

①やり残したことがある

自死するコストの方が生き続けるコストより高い

から生きている説