【毒所感創文】デレク・パーフィットの『理由と人格』 1.自己利益説
はじめに
今回は、一番最初にしてかなり大事だと思う議論、自己利益説を取り上げる。これは、「第一部 自己破壊的諸理論」の「第一章 間接的にj自己破壊的な諸理論」に属する。早速、自己利益説について読んでいきたい……ところだが、まずは第一部の序文を読んでいく必要がある。そもそも「自己破壊的」とはなんぞやと思うだろうし、自己破壊的と自己利益説のつながりもわからない。私は、ある議論がどういった問題意識で発生しているかを理解しないとその議論を正確に理解することはできないという立場をとるので、今回も序文をないがしろにしないのである。ある汚染された川の中流だけ見ていも汚染の原因はわからず、源流や上流を見なくてはいけないようなものだ(この比喩必要か?)。
ということで、例によって例のごとく、勝手に解釈して読んでいくので、よろしければお付き合いください。
第一部 自己破壊的諸理論の序文について
いきなり出だしが難しい。
原文:What do we have most reason to do?
訳文:われわれの多くは、何をするのが一番理由があるのかを知ろうと欲する。*1
はっきり言って意味が分からない。読解力のない私は思わず読む気が失せてしまうのだが、ここで前回触れた序を思い出す。この本における「理由」とは、行動の理由だったはずだ。それを踏まえると、「どんな行動が最大の理由を持っている」かみたいな感じだろう。この解釈が妥当かどうかは今後読んでいけばわかるはずなので(あれ問題を把握するために問題意識を把握するはずがその逆になっていないか?)、とりあえず先に進む。読み進めていった結果、どうやらこの序で言いたいことは以下のような感じだと思われる。
どんな行動をすべきかについて道徳理論と合理性理論が答えてくれるが、この二つの理論は必ずしも一致した答えを提供するとは限らないので、どちらが最善の理論か決めなくてはいけない。その際、自己破壊的であるかという観点で議論することができる。ある理論が自己破壊的であるというのは、その理論がその説明対象すら説明できておらず破綻しているということである。自己破壊的な理論は、さらなる展開や拡張されるべき、あるいは却下ないし改訂されるべきである。
この解釈が正しいかは続きを読んでみないとわからないのだが、前回、われわれの理由に関する信念は間違っているという話を読んでいるため、道徳理論や合理性理論に関するわれわれの信念は自己破壊的で間違っているから改める必要がある、という話になるのが自然だろうと見当をつけておく。
自己利益説
この議論においてパーフィットは自己利益説を定義する。その説明手順も割とわかりやすいのだが、議論の展開をそのまま追って要約すると省略できる部分がほとんどなくなってしまう。よって、ここではあえて議論の展開は無視してまとめていくことにする。具体的には、まず自己利益説の主張を提示し、その後補足していくスタイルをとる。
自己利益説の中心的主張は以下である。
S1
個々の人物にとって、この上なく合理的な究極の目標がある。それは彼の生が可能な限り彼にとってうまく行くことである。*2
パーフィットは、彼の生が可能な限り彼にとってうまく行くことを最善と呼んでいる。
目標
形式的目標と実質的目標
自己利益説の中心的主張(S1)のうち、まずは目標に注目しよう。ある理論の「目標」とは、その理論がわれわれを努力させて何を達成するのかという意味である。たとえば、すべての道徳理論は道徳的正しさを目標とし、すべての合理性理論は合理性を目標とする。このような目標は形式的目標(formal aims)である。また、ある道徳理論は別の道徳理論とは別の目標を持ったり、ある合理性理論は別の合理性理論とは別の目標を持ったりする(道徳や合理性の中身次第でその理論の具体的な目標も変わりうる)。このような目標は実質的目標(substantive aims)である。要するに道徳という箱の追求する目標は形式的であり、嘘をついてはいけないという箱の中身の追求する目標は実質的であるということで、親子関係・主従関係に近い関係性だと思う(目標自体に親子関係や主従関係があるわけではないが)。
パーフィットは「実質的目標」の意味で「目標」という言葉を使用することを宣言している。
それ[目標を実質的目標の意味で使うこと]は道徳的目的(goal)ではなしに、権利や義務にかかわる道徳理論を記述することができる。*3
というメリットがあるから、目標を実質的目標の意味で用いていると思われる。おそらく哲学的な「目標」という語の使い方の前提があるから、わざわざ宣言しているのだと思うのだが、哲学的素養がない私にはこの宣言をわざわざする意味がいまいちわからなかった。もしかしたら、今後使う「目標」は具体的な行動指針(ex. 嘘をついていけない)というのを示してくれているのかもしれない。
究極の目標と道具的目標
形式的目標とか実質的目標は良いとして、S1にある究極の目標とは何ぞやという話に入る。これはいたって簡単で、ある目標Aが別の目標Bを達成するための手段にすぎないとき、目標Aは道具的目標、目標Bを究極の目標と呼ぶということである。つまり、S1で示されている目標は道具的目標ではなく、自己利益説が達成したいものそのものであるということだ。
自己利益に関する理論
では、自己利益説が達成したい究極の目標であるところの、彼の生が可能な限り彼にとってうまく行くこととは何なのか。もし自己利益説に従って行動する場合、どんな行動をすれば最善なのだろうか。この問いに答える理論をパーフィットは自己利益に関する理論と呼ぶ。私が追究せんとするものはこの理論に属することになるだろう。
有力な説として快楽主義説、欲求満足説、客観的リスト説がある。
・快楽主義説は、ある人にとって最善とはその人を最も幸福にすること。
・欲求満足説は、ある人にとって最善とは、生涯を通じてその人の欲求を最も満足させること。
・客観的リスト説によると、ある物は、われわれがもうと欲するか逃れようと欲するかにかかわらず、われわれにとってよいものだったり悪いものだったりする。
これらの説については「補論I ある者の生を最もうまく行かせるもの」で取り上げられているので、そこで改めて触れたい。
さて、これらのうちどれが正しいのかという話になるが、パーフィットは決めようとしない。なぜなら、自己利益説は合理性理論だからである。
合理性理論
そろそろ忘れていることだと思うので、もう一度S1を思い出そう。
S1
個々の人物にとって、この上なく合理的な究極の目標がある。それは彼の生が可能な限り彼にとってうまく行くことである。*4
あとは合理的という言葉について触れれば、だいたい言及したことになる。
S1に合理的なという文言が含まれるのは、自己利益説が合理性理論の一種であることを示唆している*5。ここで目標の話も思い出すと、以下のようになる。
・自己利益説は合理性理論の一種であって、自己利益に関する理論の一種ではない
・合理性理論の(形式的)目標=合理性
・自己利益説の(実質的)目標=彼の生が可能な限り彼にとってうまく行くこと
自己利益に関する理論と自己利益説は別物である。また、本書で議論されるのは主として後者であって前者ではない。もし自己利益説を行動の理由として適用するならば、確かに自己利益に関する理論を選択する必要がある(何が最善かはっきりさせる必要がある)が、自己利益説を論じるだけならば、自己利益に関する理論のどの説にコミットするかを決めることなく、どの説にも成り立つような主張は可能である。なぜそれが可能なのかははっきりと言及されていないが、自己利益に関する理論の三説に共通する最大公約数的なもののみで議論ができるからだと思われる。パーフィットは自己利益に関する理論の三説に共通点があるという。ここでは二点挙げられている。
一つ目は快楽主義説そのものである。
この三つの理論のすべてにおいて、幸福と快楽がわれわれの生をうまく行かせるものの少なくとも一部であり、悲惨と苦痛はわれわれの生を悪くさせるものの少なくとも一部である。*6
二つ目は未来も軽視してはいけないということである。
これらの理論はすべて、誰かにとって何が最善のことであるかを決める際、われわれはこの人物の未来のすべての部分に等しい重みを与えるべきであるとも主張する。*7
【毒所感創文】デレク・パーフィットの『理由と人格』 序
はじめに
デレク・パーフィットの『理由と人格』という本をご存知だろうか。
知的な読者の方なら名前くらい聞いたことあるかもしれないが、読んだことがあるという方はそんなにはいないだろう。というのも、この本はかなり高価である。定価が1万円で、高いといわれるロールズの『正義論』(7500円)よりも高い。図書館などで借りられるなら良いが、なかなか自費で買おうとは思うまい。まあ、私自身が本を手元に置いておきたいタイプの人間だから、高価で買えない本は読まないという前提を持っているのだが、それは早計なのかもしれない。本は借りられれば良いと思う方やそもそも英語で読める方なら、高価な邦訳版に手を伸ばしにくいという問題はクリアできる。
ところが、まだ問題は残っている。聡明な方ならすぐに思い至ることだが、この本、とても文字数が多いのだ。ページ数自体はだいたい750ページなので、まだ良心的なのかもしれないが(ほんまか?)、なんと段組みが上下二段に分かれているのである。わざわざ文字数を計算したりはしないが、全体で相当な文字数になることは想像に難くない。この量だと読み切れるか不安になってしまい、ますます買いづらい。私もそう思っていたし、現に買おうとはしていなかった……。
が、Amazonの欲しいものリスト機能を利用してこの本を送ってくださった方がいて、幸運にもこの本を手にすることができた。その方への感謝を込めて、読書感想文を認めようと思う。
以上が、『理由と人格』の読書感想文をこれからゆっくり書いていく経緯である(長い! 結論を先に言いなさい!)。
なお、勝手に原文(基本的に訳文だが英語の原文も引っ張るかも)をそのまま引用するときは引用の形式を取るが、私が要約したり勝手に文言を変えたりする場合は、時の文に斜体で書く(余裕があれば参照ページはつけます)。
また、このブログを書いている私ではない"I"や読者ではない"You"は、なるべくわたしやあなたという表記で区別できるようにするつもりである。
適当に読んで適当に思ったことを書くので、興味ある方はしばしお付き合いいただきたい。感想をコメントしたりTwitterで呟いたりしてくださると、非常に嬉しい。検索用にタグが欲しいところだが、いいものが思いつかないのでとりあえず「#毒所感創文」を付けていただけると、エゴサで引っかかるかと。
序
この本の主題について
この本には目次より前に「序」がある。軽い気持ちで読み飛ばしたくなるかもしれないが、ここをそんな気持ちで読み飛ばしてはいけない。ここでこの本の主題をある程度理解する必要がある(と、私は読んでいて思った)。
どうやらこの本には二つの主要な主題があるらしい。その一つ目は以下である。
本書の主要な主題の一つは、われわれがなすべき理由を持つことに関する一連の問題である。*1
タイトルの「理由」は、このテーマを示している。
となると、もう一つの主題は「人格」だと予想できるはずだ。実際そうであった。人格の主題は以下の問題である。
・個々の生の統一性=何によってわたしは生涯を通じて同一人物であるのか
・別々の生の間の相違=わたしやあなたが個別の生を生きることから何が言えるか
・別々の人格の間の相違=何によってわたしとあなたが違うのか
・これらの事実のどこが重要か
と、理由と人格について述べた後、その関係が密接であるとパーフィットは述べる。人格に関してわれわれの信念は間違っており、その信念をただすことによって理由に関する信念(道徳理論および合理性理論)を変えることになるらしい。
使用される概念について
使用される概念について序で説明する気はないと著者は述べており、本当に説明してくれない。しかし、用いる概念の名前は出してくれている。今後何度も登場する概念を今のうちに把握しておくのは、たとえざっくりとした把握であったとしても悪くないはずだ。以下の概念が紹介され、所与のもののような扱いを受けていた。
・reason for acting=われわれの行動には理由がある
・ought=われわれはある仕方で行動すべきである
・morally wrong=ある行動の仕方は道徳的に不正である
・good or bad=ある結果は道徳的によいか悪いかどちらかで、悪い結果は防ぐべきだ
・self-interest=自己利益
・best for this person=この人物にとって最善
・person=人格
所感
当たり前だが、序なのでこれだけだと何とも言えない。この本は、議論を一個ごとに分けて書いてくれているので、今後は議論ごとに記事立てして書いていきたいと思う。
*1:ⅲページ上段
幸福論の断片
はじめに
ちょっと思いついたのでメモがてら書いてみようと思う。
私が思いつくことなので、今まで私が知らないところで誰かが考えて発表しているかもしれないが、それをパクる意図は全くない。もし以下に書くことが既に発表されているならば、大変興味深いのでコメントなどで教えていただけると幸いである。
I am happy. VS My life is happy.
幸福という言葉を使う際、以前も触れたかもしれないが——私は去年何書いたかを覚えていない——、二つの語法が考えられる。
1:私は今満足している精神状態であるという、I am happy.
2:私の人生は満足のいく、うまくいったものであるという、My life is happy. (英語的には正しくないかもしれないが)
私はこの二つを、ミクロな幸福/マクロな幸福、あるいは微分的幸福/積分的幸福などと換言することがある。その根底には、その二つが対比的に考察されるべき別概念だという意識がある。しかしながら、私の狭い狭い観測範囲では、1と2が混同されるか、どちらかだけ議論されている印象がある。もちろん、幸福ないし福利などの言葉は使用者によって守備範囲が変化するからといって、恣意的に解釈してはならない。議論がどのコンテクストでなされているかを常に注意しなくてはならず、1についての議論を2として読み替えてはならないし、その逆もまた然りである。
という前提を踏まえた上で私の立場を明確にすると、幸福について私は2の方を重視している。一時的にハッピーでも死ぬ間際に不幸な生をあまり評価していない。このスタンスは昔から変わってはいないのだが、これには問題があると自覚していた。1と2を混同したくなる原因でもある。
死ぬまで幸不幸が決まらないのは不便である
人生を評価するタイミングはいつなのだろうか。「ある人が最後に意識を持っていた瞬間、その人の人生の幸不幸の評価は確定する」と仮定しよう。それは私たちが死ぬまで幸不幸かがわからないことを意味する。しかし、これはあまりにも不便である。生きている個人の幸福を実質的に評価できないからである。例えば、個人の幸福が同じになるように社会で幸福的資源(それはお金かもしれないし、別の何かかもしれない)を配分しようとした際、個人の幸不幸の評価をどうやって行えばよいのだろうか。
そこでちょっと思いついた仮説、すなわち本稿のメイントピックになる。
ある人の幸福(度)とは、ある時点でその人の人生がどれくらいうまくいきそうかという、その人が抱く期待(値)である。
これは1と2の区別を曖昧にしており、今までの想定とは大きく異なる。しかし、うまくいく予感がなんとなくする。当然のことながら細部を突き詰めるには十分な時間考える必要があるため、本稿はここで一旦止めておくのだが、ここをしばらく議論のベースキャンプにしていろいろ思索の旅に出かけたいと思う。
追記
自分が今人生で瞬間的に最高の幸福を迎えてると思っている時、これから下降線を描く人生を悲観的にとらえるとどうなる?
追記
これからの人生が決して今より幸福でないとわかっていても、
①やり残したことがある
②自死するコストの方が生き続けるコストより高い
から生きている説
アニメ勧奨備忘録
最近自分が見たアニメを覚えられなくなってきたので、この記事で管理したいと思う(定期的に更新する)。
リアルタイムで追いかけることはほぼほぼしないので、時期的には古いものが多い。
また、私は結構英語音声で見るので、勧奨とか言っておきながらたいして参考にはならないのであしからず(リスニング目的なら参考になるかも)。
おすすめのアニメあったら教えてください。
アニメで気分悪くなるのは嫌なので、鬱要素があるアニメは見ません。
2020年秋
ワンナウツ(9点)
勝負師の野球選手の話。日本語で視聴。面白いけど、話数の割に話が進まない。
咲(8点)
実は最後までは観ていない。日本語で視聴。嶺上開花を意図的に起こせる気がしてきた。
ピアノの森(9.5点)
クラシック音楽好きなら楽しめると思う。英語で視聴。のだめとか君噓とかよりも好きかな。結構感動する。
魔王学院の不適合者(9.0点)
割と好き。安心して見られる最強もの。
八男ってそれはないでしょう(8.0点)
無難なアニメ。
下ネタという概念が存在しない世界(6.5点)
ピー音が多すぎる。
ありふれた職業で世界最強(9.5点)
かなり好き。一途なの良いね。
ドメスティックな彼女(9.5)
かなり踏み込んでる。絵が綺麗。ヒロインの片方が健気で良かった。主人公に共感できなくてモヤモヤした。
追記。やっぱりかわいそうなんですよ、ヒロインが。
2021冬
かくしごと(9.5点)
コメディとシリアスのバランスが良く、構成面にも工夫が見られる。終わった後のもやもやとかもなく、良作。
CLAYMORE(10点)
原作読んだのでかいついまんでしか見ていないのだが、ご都合主義的な感じがしない&主人公がちゃんと成長する&純愛&ファンタジーという好きな要素が詰まっている。グロいところがあるし割と残酷なところもあるのだが、厳しい世界観がうまく表現されている。原作最後まで読めてないのでいつか読みたい。
宇崎ちゃんは遊びたい!(8.0点)
中身はやはりあんまりないけど、安心して見られる。原作の方がうざい感が出ている。
呪術廻戦(8.5点)
まだ14話だけど、普通に面白い。ただ想像の範疇かな。
富豪刑事(9.0点)
面白くないと思ったら面白いパターンかも。まだ見てる途中
面白かったです!
2021年春
私はこういう神系好きです。かんなぎからアニメを結構み始めたくらいには。
続編の方は途中までみた。
真剣で私に恋しなさい!(8点)
普通に面白いけど原作と全然違うストーリーなので(一長一短)
龍ヶ嬢七々々の埋蔵金(9点)
普通に面白いのと、名探偵が可愛い。
球詠(8.5点)
話はいいのに作画がやばすぎる
セキレイ(9点)
続編出てるやつがハズレのわけがない。よくできていた。
ハーレム系の割にハーレムぽくはない。
異能バトルは日常系のなかで(6点)
悪くないけど、キャラが弱い。
六畳間の侵略者⁉︎(8点)
安心してみられる、面白い。タイトルが悪くはないけど勿体無いかな。
セイレン(9点)
アマガミほど中盤のシリアス展開がシリアスでないのでむしろみやすかった。
ゴールデンタイム(9点)
まさかの24話まであるやつだった。いつもの負けヒロインに同情するやつをやってしまった
ブラッククローバー(9点)
長かったけど一週間で見た。
面白い。退場者が少ないのも良い。
ぐらんぶる(7点)
想像と違う馬鹿アニメだった。悪くはないけど良くはない。
幸福論的な愚考録 00
私は中学生の時から、人はいかに生きるべきか、また、社会はどうあるべきかについて疑問に思っていた。特定の個人が人生のある局面でどのような選択をとるべきかのような具体的な話ではなく、一般的に人間というものがどうあるべきなのか、そのことに関心があったのだ。当然(果たして本当にそうなのだろうか?)人と人とが交われば、そこには社会が在る。だから、人間の理想を追究する上では、社会の理想も重要な考察対象になりうると考えている。
では、その理想とは何かというと、これが難しい。個人だけに注目するならば、その個人の幸福の最大化だろう。すると今度は、その幸福の意味を考えねばならない。私はおおまかな意味としては、循環論法的な気もするが、幸福を「至高の目的」と解したい。アリストテレス的に言えば「最高善」だろう。
しかし、これには二つはっきりしなければならない点がある。まず、幸福は時間的に二種類あるということだ。ある出来事が幸福であるということと、その人の生が幸福であることは明確に区別されなければならない。これはゼールが既に言語化していることである。私は、至高の目的としてより適切であるものは、生の幸福であると考える。確かに、人とは、しばしば目先の快楽を追求してその後に大きな不幸を経験する生き物であるが、我々が真に追求するのは幸福な出来事ではなく幸福な人生だと思うのだ。これを論理的に述べることができれば、私も少しは自信が持てるものだが、私はあいにく次の例を持ち出すことくらいしかできない。これは私への宿題である。
ヘロドトスの歴史に次のような話がある。ソロンは、クロイソスに「この世界で一番仕合せな人間」を訊かれて、「アテナイのテロス」と答えた。自分が世界一幸せだと信じていたクロイソスは驚き、理由を訊ねた。ソロンは、繁栄した国で子孫に恵まれたこと、生活が裕福であったこと、死に際が見事だったことを理由に挙げた。クロイソスは、今度は自分が二番目に幸せな人間だと思って、ソロンに「テロスに次いで二番目に仕合せな者は誰と思うか」と訊いた。ソロンは、見事な死を迎えたクレオビスとビトンの兄弟を挙げた。クロイソスが、自分が幸福でない理由をソロンに訊ねると、ソロンは次のように答えた。「あなたが莫大な富をお持ちになり、多数の民を統べる王であられることは、私もよく判っております。しかしながら今お訊ねのことについては、あなたが結構な御生涯を終えられたことを承知いたすまでは、私としてはまだ何も申し上げられません。どれほど富裕な者であろうとも、万事結構ずくめで一生を終える運に恵まれませぬ限り、その日暮らしの者より幸福であるとは決して申せません。(中略)人間死ぬまでは、幸運な人とは呼んでも幸福な人と申すのは差控えねばなりません。」その後クロイソスは実に波乱に満ちた人生を送り、決して幸福な人生を歩まなかった。
最終的にその生に満足できるかが、私には非常に大切なことのように思える。それには失敗のない順風満帆な人生よりも、多少の挫折がある経験があった方が良いのかもしれない。ある瞬間的な不幸も、後の幸福の糧となるというのは、そう珍しい話ではないはずだ。
ある優秀な後輩はこの瞬間的な幸福を「微分的」と表現し、もう一方の幸福を「積分的」と呼んだ。この表現を用いると、ある人にとっての幸福とは次のように考えられる。縦軸に幸福度、横軸に時間をとるグラフがある。グラフに描かれるのは、各個人の各時間においての幸福度をプロットした点を結んだものだ。ここでの幸福度とは、ある瞬間的な時間において、人が本人にとってよい状態または変化を経験すること、あるいはある状態または変化をよいと判断すると、より高いと判断されるものである。この考えに則れば、ある人の生が幸福であったとは、その積分(グラフと縦軸横軸に囲まれた面積)によって得られると考えられる。しかし、私はそうは思わない。たとえば野球で初回から8回裏までリードしていても、最後にサヨナラホームランを打たれれば負けだと思う。これについてはまだ検討の余地があるだろうから、またの機会に考えたい。それに、では死ぬまで幸福かどうか判断できないのか、7回終了時点で勝利していることに意味はないのかなど、突っ込みどころはたくさんある。ここでは、幸福には時間的に二種類あること、そして人生が幸福である方を私は重視することが、今の時点で大事な内容だ。
さて、もう一つの問題点は、幸福であると判断するのは誰かということだ。先ほど「本人にとってよい」という表現を用いたが、私は幸福であるかどうかの判断をする主体は、本人でなけれなばならないと考える。どんなに他人が羨む状態であっても、本人がそれを幸福であると自覚できていないのならば、それは幸福ではないと断ずるのである。なぜなら、至高の目的として追求されるべきものは、自分が幸福であると感じられるものであって、他人から見て幸福であると判断されるものではないと思うからだ。もちろん両者が一致することもあるだろう。ただ、両者が衝突した場合、主観的幸福を客観的幸福よりも優先すると言いたいわけである。
以上の非常に粗い議論を踏まえると、個人の幸福の最大化とは、個人が自分で最も満足できる人生を歩むことを指す。その手段を考える際に、微分的な幸福も関係するかもしれないし、理想的な社会のあり方も議論されるべきであろう。
怠惰なぼっちとダイダラボッチって似てるよね(後編)(下書き)
後半ということで、主に後期課程について書こうと思う。
ただ何を書きたいか考えてから書いていないので、あとで加筆修正盛りだくさんになる予定。
前半部分を読んでいない方はこちらから怠惰なぼっちとダイダラボッチって似てるよね(前半) - shigureinnのブログ。
まずは、駒場で先取りする科目について。
正式に後期課程に進む前に、駒場で開講される科目や二年なのに本郷で受けなくてはいけない授業が存在する。社会学専修は必修が少ない(体感)上に、単位取るだけなら大したことはない学科だろう。基礎統計やったことある人なら統計を扱う社会調査も余裕だし、概論の授業も一限に出席さえできれば大丈夫だと思う。私なんか一番前とかでも平気でほぼ寝てましたが単位来たので(なお良)。ただ一つ面倒なのがあって、それは、概論の授業時間外に行うのにもかかわらず概論の単位取るのに必須なTAセミナーだ。これは「プロ倫」や「自殺論」などの読書会みたいなもんだが、大変ではあるものの真面目に古典を読むことができる貴重な機会なので、私にとっては数少ない社会学専修で満足している部分でもある。ペースが速いので、ついていくにはちゃんと読書時間を確保して課題本を読む必要があるが、東大生ならその点は心配いらないだろう。私ちょっと読めてない時もあったけどどうにかなったし(怠惰ですねえ)。ちなみに課題本は上記二冊がおそらく毎年固定だと思われ、追加で大体一冊読むことになる。私の時はハーバーマスの「公共性の構造転換」を読んだ。いいチョイスだった。
話がそれるが、私は駒場時代、前期教養では特に取る必要性はない展開科目で社会学のものを取ったのだが、そこではもう退職された先生と二人の仲間とともにコントやボルタンスキを読んだ。前者はかなり昔の本のはずなのに、これがなかなか現代に通じる示唆を含んでいて面白かった。この体験が楽しかったので、社会学専修を選んだのだが。
さてさて、話を戻そう。いよいよ本題だ。これから私にとっていかにこの学科が糞だったかを書き連ねるだけなので、言いたいことある方もいるかもしれない。言いたいことがある人がもしいたら、マナーを守った上でコメントをどうぞ。なお、私のメンタルはプリンくらい弱いので、誹謗中傷でなくても私が不快なものがあれば、最悪記事を削除する可能性があることを断っておく。逆に言えば削除して欲しければ暴言を吐くと良いかもしれないが、良識ある人ならばもっと賢いやり方を取ってくれると信じている。では。
私がダメだと思う点、その一。
「社会学特殊講義」が卒業するのに十二単位(記憶違いがあるかもしれない)も必要なのに全然面白いのがない。怠惰な私が探すのが下手だったのかもしれないし、私の関心のある分野が狭かったのかもしれないが。気になる方は東大授業カタログからシラバスを検索されると良いと思う。「社会学特殊講義」で検索されるものが、あなたの期待したものだろうか? 特に進学先で社会学を考えている人は、このラインナップを見ていきたいと思うかもう一度確認してほしい。これしか学べないと思った方がいい。自主的に勉強したり、教員にどんどん質問したりして賢くなっちゃう勤勉な人には無用なことだが、私みたいに怠惰な人間には、「え、ここで学べるのこれしかないの?」とかなりがっかりする内容だったことを強調しておきたい。もっとバウマンとかジンメルとか勉強できると思ってた、残念。〇〇社会学みたいなものって興味ないものは本当につまらないし、同じ社会学研究室でも先生によってやっている領域が全然違うので、全部は好きになれないの。
とはいえ。私にも問題はあった。たとえば、アルバイトのために五限の授業をなるべく入れないようにしていたの(ので、必然的に履修可能な科目が限定されていた)は、勤勉な学生のすることではない。でも、言い訳させてほしい。サークル活動や外食代、定期外の交通費を払うのにアルバイトは必要不可欠だ。親は授業料を負担し、携帯電話代を払ってくれ、実家だから衣食住も問題ない。それに、昼飯代も教科書代も定期代も親持ちだ。これ以上何を望むのかと言われるのは一億くらいは承知している。しかし、大学生が趣味で何かを買おうとしたり旅行したりするのに加え、サークル活動まで入ってくると結構懐事情は厳しくなる。進捗のお供「魔剤」もなかなかいい値段するし。あと、テスト前に参考書を買うと、それでお金が結構飛んでいった。大抵の授業は話すスピードが遅すぎて眠いので、テスト前日にレジュメに従って参考書を読むわけだが、教科書以外にもなんか買うと割と財布がダイエットする。というわけで、後期の二年間はかなりアルバイトしていた気がする。前期教養時代より取得単位が多いのに、後期の方が稼ぐ金額多かったし、そのおかげかお金がないというストレスはほとんど感じなくなった。逆に言えば、前期課程はお金がなさすぎて少しの出費も気にしてストレス溜まりまくりだったのだが(その分好きな授業が多くて楽しかったが)。
社会学特殊講義以外にも、バイトのせいで履修を諦めた科目もある。社会調査士取るための授業も取れなかったが、これもまさに私の選択の結果である。バイトを辞めようと思えば辞められたのだから、大学の授業の優先順位を下げた私の問題なのだ。(余談だが、昼飯代を学食パスを通して支給されていたので、昼食を抜いて懐にお金を残す作戦は使えなかった。できたら間違いなくやっていたのに。)
要するに、お金欲しくてバイトすると、そのために取れる授業がゴミだったということ。
前期教養の人は、進学先を考える上で、実際にどんな授業があるかは確認しておこう。
私が不満を持つ点、その二。
ゼミについて。これは私の所属していたゼミだけなのかもしれないが、存在意義がワケワカメ、とにかく不明だった。ゼミに所属しないと卒業できないので、少ない候補から仕方なく取るわけだが、二年間かけてやった内容が残念であった。ガイダンスでは英語の文献読むとか言ってたのに、実際にやったのは社会学の入門レベルの本の読書会でしたね? それと、四年生の卒論の構想や進捗の発表会がゼミのメインであったが、前者は一体誰得なのだろう? 私は大学の授業では、自分一人ではできないことを学べるのではと期待していた(今もそうである)。こんな本一時間で読めるのにと思いつつ、そんなにいい出来でないツッコミどころの多い本を読んで、みんなでそれについて突っ込むなんて、私にはそんなに価値あることだとは思えない。Twitterでやれそうだし。あと社会学専修では三年次にゼミ論という二万文字くらいの論文(レポートみたいなもん?)を書かなくてはならないが、それについての発表は三年次のゼミ合宿一回だけでその後のフォローはなかった。さらに私の教官がゼミ論について提出アナウンスを忘れたため、私がゼミ論を提出する必要はなくなりました。ゼミではゼミ論とは別に課される課題が別にあったのでそれを提出することでゼミの単位はちゃんと回収しましたが、ゼミ論の立ち位置がわかりませんでしたねえ。これが卒論につながるはずなので、この時点で私は損しました。どうやら書いて出した人もいたらしいけど、フィードバックはあったのだろうか。ほとんどのメールに返信が来なかったので、私は連絡をする気も失せてしまったけど。
これは本筋とは関係ないのだが。私は当初卒論でデータを分析しようと思っていたのだが、学部生というのはデータにアクセスする権限がないので先生に頼まなくてはいけないのである。そこで神経をすり減らしながらも紆余曲折を経て頼んだはずなのだが、データは私のもとになぜか送られて来なかった。なのに、先方にはデータ利用の申請したはずなのに使わなかったと思われてそうなの、解せぬ。私に落ち度あるのかな。これのせいもあって、私の夏前における卒論の進捗は、もともとあんまりなかったけどゼロになりました。秋からテーマが倫理に寄ってくのは、このデータが使えなかったのが大きい。
改元前に〆たいのでとりあえずまとめる気ないけどまとめる。
大学って放任主義だし、無責任だ。これは完全に個人の感想なので、もしかしたら私の認識がおかしい可能性がある。だが、卒論を書くのにに必要なことはほぼほぼ全て独学で身につけなくてはならない。もちろん、先行研究として扱う論文を自分で読まなくてはいけないのは重々承知なのでそこに不満はnothingなのだが、だとしても必修の授業とっても全然社会学わからないよね? 前にも書いたが、カリキュラムが微妙な気がする。もっと最先端の社会学に触れられる機会ってなかったのか。私が怠惰で調べ方が足りなかったり、行動力が足りなかったりしたのか。あるいは学科の人とあまりにも疎遠すぎて重要情報を逃していたのか。もう真相は不明だが、別にこの内容なら「十時間で学べる社会学」で本当に足りてしまう。著者が東大の先生で授業の内容と酷似してるし。仮に怠惰な私に責があるとして(充分ありうる)、だとしてもこれをやれみたいな道筋を示して欲しかったというのはある。これを読め、これをやれとかでも良いのだが、そう言ったものが何もなく、いきなりぽーんと学問の世界の入り口付近に放り出され、就活が終わったかと思えば卒論を付け焼き刃で書かかされ、卒論発表会で「これは論文の作法を守っていません」とだけ言われ、観測しうる人がみんな卒論で優をとる中一人だけ可を取ってしまうのは、ちょっと悲しい(それまで不可なしで可も6単位しかなかったのにね、卒論のせいで可が合計18単位になってしまったよ)。授業料払った親もかわいそうだ。確かに実質一ヶ月で書いた私の卒論の出来は悪いと思うが、そこに指導不足は1%くらいあってもいいんじゃないんですかっていうのが、今回ブログ書いたきっかけ。改元前に一回締めたかったので、とりあえずこの状態で上げて、あとで修正します。
学位記、平日しか開室していない研究室にどうやって取りに行けば良いのだろうか。
怠惰なぼっちとダイダラボッチって似てるよね(前半)
四月に入り十日弱経ち、私も社会人として最初の一週間を終えたわけだが。そもそも先月大学を卒業したのに、その実感が全く湧かないのは一体どういうことなのだろう。学生証を返し、学位記を授与されていないからだろうか(学位記授与式を体調不良で欠席してまだ交換していないのだ)。それとも自分が大学(それも東京大学)を卒業するに値する勉学を怠ったからだろうか。両方とも、このなんとも言えないふわふわした気持ちと無関係ではないだろう。だけども、他にもいろんな理由が存在し、それらが複合的に重なっているというのが正しい気がする。個別の理由を挙げればキリがないし、それらを詳細に検討するつもりもないのでもう書かないけれど、ちょうど節目なことだし、大学生活を振り返って、大学時代良かったことと悪かったことについて書いてみようと思う。これから大学生になる人、特に東大に入る人の参考になればいいなと望んでいるが、これから書く内容はただの愚痴なので読む価値はそこまでないだろう。一応、書き手としては次のような認識を持っており、それを伝えようとしているものの強く主張するつもりはない(大きい主語で何かを主張すると、たちまちそれが発火点の低い可燃物と化す世の中なのでね! 私は火葬場まで燃えたくない)。
さて(前置きが長くてもう読み飽きた方も大勢いらっしゃるだろうが、この文章は私の自己満足が最大の目的であるから読み手にそこまで忖度するつもりはないので、この後もこんな感じでだらだらと冗長的な文が続くと約束しておこう)私の共有したい認識とは、すなわち、
東大の社会学専修は「怠惰なぼっち」には厳しい世界だよ……A
ということである。
これは東大特有の事情が強く関係している。読者のほとんどはご存知だと思われるが念のため触れると、東大では三年次進学する学部が入学次に確定しておらず(推薦で入った方は異なるかも)、入学時の科類と一・二年の成績と本人の希望に応じて、卒業する学部学科が決まるシステムとなっている。よってAとは、言いかえれば、進学先の選択で文学部の社会学を選ぶと、あなたの性格によっては後悔することになりますよ、ということだ。
私には、この文章を誰が読むのか見当もつかないが、もしかしたら読者の中には新入生の方もいるかもしれない。あなたたちはこの時期やる気があるはずだ。もちろん、受験勉強を頑張ったしもう遊びたいと思う人の存在を否定するつもりはない。ただ、二十四歳の老害が一言申し上げるならば、仮にやる気があったとしてもそれが持続する人はほんの一握りである。大学とは自由な世界であり、何を成し遂げたいか考えないでだらだらと過ごそうと思えばいくらでもそれが許される。私の経験では後期課程、つまり三年と四年の時はまさにそうだった。しかし、これはよろしくない。後悔するぞと言っておこう。これから書く内容はどれくらい一般化できるのかわからないが、あくまで個人の話であると断った上で大学生活を振り返る。参考にされたし。
私は怠惰である。端的に言うと、労力から直ちに利益が導かれないのであれば、努力することができない人間である。しかし、悲しいかな、コツコツ努力した者が得するのが世の常で、私は損している。たとえば、英単語や世界の用語を暗記する作業は、私にとっては苦痛でしかないのでできなかった。理性ではそれが必要な行為だとわかっていても、これは義務としてはあまりにも消極的なもの(やらないと後で困るもの)なので、怠惰な私にはやる気が起きない。趣味のピアノでも、私は基礎的な練習をするのが非常に苦手で、三日坊主にすらなれない。私はナマケモモノなのだ。
こんな人間には、大学という場は非常に危険な場所である。大抵のことはしなくてよいのだから、いくらでもサボることができる。結構ギリギリで入試を突破したからには入学後は真面目に勉学に励んで周りに追いつくぞと思っていた私が、半年でそんな気力を失うくらいには自由である。それでもまだこの時期はやる気があった方だ。
一年の最初のセメスターは必修科目も多いので、そこそこやる気も出て勉強する。第二外国語や英語の重い授業があるので、ついていくのにそれなりに努力が求められる。課題もちょこちょこ出された気がする。今思えばこれは大変ありがたいことであった。課題がなければ勉強しないのだから! 昔から家で予習とか復習とかをする習慣がない私なので、大学でも当然ほぼしなかったのだが、課題を最低限やるだけでそれなりに力はつくものである。しかし、これは前期教養時代(一・二年のこと)だけで、学部後期(三・四年)からは課題があるようなハードな授業はあんまりなかった(取らなかったとも言う)。その理由は、後期になって専門的な授業が増え、あんまり興味だけで冒険して受講できなくなったからでもあるし、私がより面倒なことを回避する人間になったからでもある。前期は真面目だったのだ。その後の自分と比較してという但し書きが必要だけども。
そこそこの勉強はそこそこの結果をもたらした。全科目の平均点は八十点をちょっと超えたくらいだった。良くはないけれど悪くない点数だった。しかし、これでは私が行きたい学科には行けなかった。
私は昔、見田宗介氏の『社会学入門』を読んで社会学に興味を持っていた。だから、大学で社会学を学びたいと、文学部の社会学専修に行きやすい文科三類を受験した。しかし、入学後同じく社会学が学べるらしい後期教養学部の相関社会に行きたいと思った。駒場の方が楽だと思ったし、周りの人たちが強くて刺激を受けられると思ったからだ。とはいえ、当時は確か八十三点くらいなければ進学できなかったので、そこそこしか努力していない私には叶わない夢であった。まあ文学部の社会学に行ければいいやという思いもあったから、最低限の勉強しかしていなかった。至極当然因果応報みたいな感じ。ちょっと違うけど。
ちなみに当時は追い出し制度がなかったので、一度悪い点を取るとほぼ詰むというクソ仕様だった。私の場合、必修の語学と準必修の心理で悪い点取ったのが響いた。総合科目(自由に取れるやつ)は興味あるのを取ったので、一夜漬けでも結構良かったのだが。
とまあ、授業には一応行っているものの試験の直前だけ勉強するゆるゆる生活をしていたら、八十点ちょいしか取れず、文学部の社会学専修課程に行くことになったとさ(後半へ続く)。